素敵な文章を書いていただきました

僕の友人のMさんが僕と面会した時のエピソードを書いた文章です。ご本人に許可を得て紹介させていただきます。

二〇二四年一〇月一日(火曜日)

大川翔平先生は、「おおかわ体操クラブ」の代表であり、体操の技を華麗に実演しながら解説する人気ユーチューバーでもある。私が空中逆上がりと空中前回りをできるようになったのは大川先生のおかげだ。大川先生の模範演技の動画を観て練習したからである。ところが蹴上りに関しては、大川先生の動画を繰り返し観ても手ごたえなしの状態が続く。「それなら《憧れ》の大川先生に実際に会って教えを乞うべきだ」という、私と同様に非常識な家族の声に背中を押されて面会を取り付ける。前日に連絡するという暴慢、そして素性不明の初老男性が蹴上りを教えてほしいという荒唐無稽な頼みにもかかわらず、大川先生は私との面会を快諾してくれる。

六時三七分の始発の新幹線のぞみ号に乗って新横浜まで行き、在来線に乗り換える。朝のラッシュに遭遇し、立ったまま一時間ほど揺られて立川駅に到着。駅周辺は賑わっている。ケーキか饅頭でも手土産に持っていこうと思いながら「おおかわ体操クラブ」を目指して歩き出す。だが、どういうわけか飲食店しかない。一〇分ほど歩き、乗ってきた電車が通過した踏切を越えると、風景は突然、地方都市っぽくなる。街道沿いに「おおかわ体操教室」の看板が見える。ガラス張りの教室の奥に大川先生の姿を発見する。きれいに磨かれたガラス越しに大げさに手を振ると、笑顔で迎えてくれる。

現在、「おおかわ体操クラブ」には一〇〇人近くの生徒が在籍し、蹴上りができる生徒は二人だけだという。三ヵ月間毎日、体操経験なしの来年六〇歳の男性はこの「大技」にチャレンジしてきた。鉄棒を握ってドタドタと走り出し、すぐに落下する。掌はマメだらけになり、身体のいたるところが常時筋肉痛。両肩がちぎれるのではないかと思ったこともある。犬の散歩で公園に来た近所の人は私の姿を眺め、「すみません、先から何をやろうとしているのですか」と不思議そうな顔をして質問してきたこともあった。

最初に私が蹴上りを試みる。大川先生は即座に間違いを把握した様子だ。まずは、身体の軌道。私の場合、前から後だが、正しくは前から上だという。前から後ろは、ようするに明後日の方向であり、これが「できる気配ゼロ」の最大の原因のようだ。大川先生が少し大げさに前から上への軌道を描きながら実演してくれる。前に振り出したかと思ったら瞬時に上昇して鉄棒の上でツバメになっている。大川先生はエンジンのかからないポンコツの車のボンネットを開けて修理するように、私の動作を分解して問題点を指摘し、各問題点を克服するための練習法を伝授してくれる。きわめて漠然としていた成功までの道のりが途方もなく遠く感じられると同時に、粘り強く前進すれば何とかたどり着けるのではないかという淡い期待も湧いてくる。今回の特別レッスンで「山頂まであと何キロ、進路はこちら」という蹴上りの道標を得たことは、きわめて大きな収穫だった。それにもまして、問題点を洗い出し、それらを克服するための方法を伝授するという、経営コンサルタントのような大川先生の卓越した指導力に圧倒される。

特別レッスンの後、近くのカフェで談笑する。山頂までの見取り図を作成することだけが指導者の役割ではない。「指導者は教育者でもあるべき」というのが大川先生の理念である。大川先生は、これまで生徒に対して声を荒げたことがないという。生徒の自主性を重んじるためだ。体操を通じて「やればできる」という人間力を培うことが主眼だという。全国大会で優勝するなど体操競技を極めた後に、三年前に立ち上げた体操教室を軌道に乗せた。さらには、ユーチューブで累計再生回数が三五〇万回以上の人気チャンネルを持つ。体操教室の運営、動画の制作、ブログの執筆、デッサン、デザイン、カメラ、もちろん子育て(三児のパパ)など、八面六臂の大活躍だ。
大川先生は自分の理念を話し出すと止まらない。強い思いを抱きながら暮らしている証拠だろう。これは物事に心底打ち込んでいる人に見られる特徴だ。そして独自の理論に基づいて自己暗示をかけることのできる人でもある。これは一流のスポーツマンだけでなく成功した経営者にもみられる特徴だ。苦難を乗り越え、逆境に立ち向かうには、才能や運よりも打ち込む姿勢を維持するほうがはるかに役立つ。そして枯れることのない泉のようにあふれ出す話しっぷりは宗教家のようでもある。大川先生に「将来の夢について語ってください」と頼むと、言葉の堤防はついに決壊し、囲んだカフェのテーブルは水没した。

今年のゴールデン・ウィークから始めた鉄棒により、わが人生は豊かになった。大川先生の説く「やればできる」が私にも浸透したようだ。

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