平等の捉え方

【平等の捉え方】
以前、特定の子供が持っている「1番にやりたい」という欲求についての話をしました。
習い事では多かれ少なかれ順番決めをすると思いますが、生徒によっては1番に並ぶことを強く望む子がいます。
これは理屈ではなく、本当に、どうしようもなく、何が何でも1番にやりたいんだと思います。
ジャンケンで”公平に”順番を決めたとしても、なかなか納得できません。
さて、哲学における平等の考え方でこんなものがあります。
ひ弱な女性と屈強な男性がいたとして、彼らが同じ量の荷物を運ぶことは、きっと「平等ではない」と感じる人が多いと思います。
なぜなら、力量が違うからです。
そんな時は、男性が女性の荷物の一部を持ってあげることが、ある意味平等です。
これと同じように「精神」にも個人差があります。
「1番にやりたい」という思いへの熱量の差です。
あるいは、「1番になれなかった」時の絶望の差です。
ですから、熱量の最も多い子が1番に並ぶことは、ある意味平等だと捉えることもできます。
しかし、残念ながら心は目に見えません。
目に見えないものは正確に捉えられませんから、無いものとして扱われてしまいます。
それはつまり、ひ弱な女性と屈強な男性に同じ量の荷物を運ばせることと同じなのです。
このような哲学的な問いには賛否がありますし、もっと深く複雑です。
ですが子供を相手にする時は、目に見えない心にこそ注意してあげる必要があると思います。
子供に限ったことではありませんね。
起きている物事が同じでも、感じ方は自分と相手で全く違います。
共感しているつもりでも、自分主体になってしまっていることがあります。
話をしても、子供は自分の心をうまく表現できないかもしれません。
「平等」というのは難しいなぁと、順番争いをする子供達を見ながら考えておりました。
それでも大人は、子供たちに社会で生きるためのルールを教えていかなければなりません。
僕には僕にできることを、これからも考えていこうと思います。