教育に必要なのは遠回り

【教育に必要なのは遠回り】
現代の教育は、『悪』を取り除き『正しさ』を追い求め、『スピード感』や『コスパ』を重視する風潮にあります。
表面上の悪を徹底的に排除し、遠回りすることや待つことができません。
例えば、「人を殴る」のは悪いことです。
大人がやった場合、相手が怪我をすれば傷害罪、怪我をしなくても暴行罪となる可能性があり、そうなれば犯罪者です。
ですから、「人をぶつのは悪いことだよ」と伝えていく教育は必須です。
かと言って、幼少期に暴力をしないよう徹底するのは違うのです。
なぜ子供は、教えてもないのに、いくら止めても他人に手を上げるのかを考えなければなりません。
それは私たちが、多かれ少なかれ暴力的感情を持って生まれてきているからです。
自分の身や尊厳を守るため、大切な物や人を守るため、そして言語が発達する前のコミュニケーションの手段として、生きる上で必要だから備わっているのです。
さらに、高度な知能を持っている我々人間は、暴力的なコミュニケーションが自分にとって不利になることを、ゆくゆくはちゃんと理解することができます。
その上で、「悪いことは悪い、なぜならそう教わったから」では何の教育も成されていません。
「人を叩くと、相手が痛い思いをするから」と、理由が説明ができたとしても、そこに体験が無ければ不十分です。
叩かれて痛い思いをする経験や、力で勝てなくて悔しい思いをする経験が必要です。
痛い思いをさせて相手から嫌われる経験や、また遊びたいから自ら歩み寄る経験も必要なのです。
匿名で人を傷つける大人がたくさんいます。
面と向かってコミュニケーションが取れないから、自分だけは安全な場所から他人を不幸にしようとするのです。
きっとそういう大人は、本当の痛みを知らないのでしょう。
上部だけの『正しさ』しか知らないのです。
それに比べたら、子供同士の喧嘩や争いがどれほど健全で道理に叶っているか想像に難くありません。
教育においては、コスパを重視してはいけません。
すぐに正しい答えだけを伝えても、分かったことにはなりません。
教育に必要なのは遠回りです。
時間をかけて経験し、自ら善悪の道筋を立てていくことに意味があるのだと思います。


