会話というゲーム

【会話というゲーム】

子供が、食べ物を粗末に扱ったとします。

私なら、「いただきすってどういう意味か知っているかい?」とか

「ママが一生懸命作ってくれたんだよ」などといった切り口で教育をします。

こういう時は、栄養の話や料理の話、命の話をしたりできるので、教育チャンスがいっぱいです。

さて、ちょうど昨日の話です。

妻が作ってくれたシチューに、次男がふざけて釜揚げしらすを挿入しました。

取り分けてある自分のものでしたし、美味しそうだったので、私は「やってもいいけど、ちゃんと食べなさいよ」と言いました。

この言葉には、料理を作ってくれた妻への配慮と、息子の好奇心への承認、行動に対する責任など、様々な思いがありました。

しかし、息子はこの言葉をどう受け取ったでしょう。

「美味しくなくても、我慢して食べなさい」と捉えたようでした。

きっと自分でやっておきながら、「美味しくなさそう」と感じてしまったのでしょう。

ムスッとした顔で首を傾げ、口をつけません。

それに、私の言った「やってもいいけど」は、言葉足らずでした。

妻からすれば「せっかく自分が作った料理を粗末に扱っても」という意味で受け取っても仕方ありません。

私は妻を不機嫌にしてしまいました。

結果として、昨晩の食事はグダグダな雰囲気となってしまい、栄養や命の話どころではなくなってしまいました。

言葉のやりとりとは、実に繊細な心の読み合いだと感じます。

自分の持つ無数の手札の中で、どのカードを切るのか。

そのカードは、相手にどんな影響を与えるのか。

そして相手は、どんなカードを持っているのか。

ゲームのような表現をしてしまいましたが、会話とはそういうものです。

たった一言がその場の空気を悪くし、それを持ち直すのもまた言葉なのです。

もう何十年も生きているのにうまく扱えないのですから、会話というゲームの難易度を思い知らされます。

しかし、失敗は成功の元ですから、これからも修行を重ねていこうと思います。

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